和気氏の先祖
和気氏は、第11代垂仁天皇の第5皇子である、鐸石別命より始まります。命の曽孫である弟彦王が、神功皇后の新羅遠征に従軍しました。凱旋した翌年に、忍熊王が反逆しました。
弟彦王の活躍
皇后は弟彦王に命じて、針磨(播磨)と吉備の境に、関(備前市三石)を設けて防がせました。弟彦王によって、反乱は鎮圧されました。
一族の繁栄
弟彦王はこの勲功によって、藤原県に封じられこの地に土着しました。その後、和気氏は代々郡司の役について、この地を中心に備前・美作に栄えました。
和気姉弟の生い立ち
和気広虫姫は天平2年(730)に、弟和気清麻呂公は天平5年(733)に、備前国藤野郡(岡山県和気町)に生まれました。
姉弟の生誕地
広虫姫と清麻呂公の父親である乎麻呂は、郡司を務めていました。従って、姉弟は藤野郡の郡衙のあった、藤野郷で生まれました。2人は成人して上京するまで、藤野郷の父母の元で成長しました。
広虫姫の上京
やがて姉の広虫姫は、采女となって奈良の都に上りました。平城京の後宮で、女孺として仕えました。そして15歳で中宮職に勤める葛木戸主と結婚しました。
清麻呂公の上京
成人した弟の清麻呂公も上京し、近衛府の武官となって朝廷に仕えました。姉弟は家財を共有するほど、仲がよかったと言われています。
地方豪族の子弟
この時代の地方豪族の子弟は、男子は舎人として、女子は采女として、朝廷に出仕するのがならわしでした。
奈良の都 -平城京-
広虫姫と清麻呂公が上京した頃の朝廷は、奈良の平城京でした。当時の都の世情は、はなはだ不安定なものでした。貴族の勢力争いや、豪族たちの葛藤も激しく、政治的にも暗躍も盛んでした。また仏教勢力の政治介入も、著しいものがありました。
戦乱と飢饉
激しい政争のはてに、戦乱もよく起こりました。また食料事情も悪く、人々は飢えに苦しみました。戦乱と飢餓によって生活困窮者や、親を亡くした子どもがたくさんできました。また、山野に子どもを捨てる人もありました。
孤児救済
広虫姫と夫の葛木戸主は、その様子をみて心を痛めました。広虫姫は親のない子どもたちを、引き取って養育しました。子どもたちが成人したときに、葛木の姓を名乗らせました。このことは、現在の里親制度の始まりであるといわれています。
広虫姫の出家
そうしているうちに、広虫姫の夫である葛木戸主が亡くなりました。出家した孝謙上皇に従って、広虫姫も尼となり法名を「法均」と名乗り、進守大夫尼位を授けられました。
恵美押勝の乱
天平宝字8年(764)、太政大臣を務めていた恵美押勝(藤原仲麻呂)が乱を起こしました。やがて乱は平定されましたが、375人の連座者が出ました。連座者を死罪にすべきだという意見が強く出ました。
減刑嘆願
このとき広虫姫は、天皇に減刑を願いました。称徳天皇は広虫姫の諫言をいれて、死刑者が出ないようにしました。
福祉事業
乱のためにたくさんの子どもたちが、親を亡くしました。広虫姫は孤児83人を養育し、夫の葛木の姓を与えました。このことは、現在の孤児院の始まりであるといわれています。
道鏡事件
神護景雲3年(769)に、道鏡事件はおこりました。仏教政治の時流に乗って政界に入った道鏡は、ついに皇位を望むに至りました。そのとき清麻呂公が、国家の命運を担う立場に立ったのです。ときに清麻呂公は37歳であり、近衛将監で美濃大掾を務めていました。
弓削道鏡
弓削道鏡は、河内国弓削郷(大阪府八尾市)出身の僧侶です。孝謙上皇の看病僧として寵愛され、権勢をふるいました。太政大臣禅師、ついで法王の位を授けられて、まさに天皇のごとく振る舞いました。
宇佐八幡神託
その年の5月、朝廷に宇佐八幡の神託を、報告してきました。もたらしたのは、大宰主神である習宜阿曽麻呂でした。それは「道鏡を天皇の位につければ、天下は太平になる」というものでした。
朝廷の混乱
宇佐八幡の神託によって、朝廷は混乱しました。臣下の身で皇位を窺うという、前代未聞の事態でした。道鏡は大いに喜びましたが、称徳天皇は事の重大さに思い悩みました。人々は神託を容易に信じることはできませんでした。
天皇の霊夢
天皇の夢に、八幡大神の使いが現われました。真の神託を伝えたいので、法均(広虫姫)を遣わすようにと、告げました。天皇は法均の代わりに、弟の清麻呂を遣わしたいと答えました。天皇は清麻呂公に、「汝よろしく早く参りて、神の教へを聴くべし」と命じました。
道鏡の誘惑
道鏡は清麻呂公に「自分が天皇になれば、汝に大臣の位を与える」と誘惑しました。清麻呂公は姉の広虫姫と、国の行く末について話し合いました。そしてその助言を、心中深く受け止めました。
勅使
神護景雲3年(769)6月末、宇佐八幡の神託の真偽をたしかめるため、清麻呂公は勅使として旅立ちました。身の危険を感じながら、しかも国家の命運を左右するだけに、重苦しく孤独な道中でした。
宇佐和気使
「宇佐和気使」とは天皇が即位するたびに、宇佐八幡に報告する使者のことです。代々和気氏が任命されました。道鏡事件の際、清麻呂公が勅使となったことに由来します。室町時代初期の文和元年(1352)に、後光厳天皇の即位の報告を、和気嗣成が行ったのが最後となりました。
八幡信仰
宇佐八幡は現宇佐神宮と称し、大分県宇佐市に鎮座しています。宇佐八幡を本源として、八幡神社は全国に2万5千社あります。源氏が氏神として祀ったので、武の神として各地の武士の間で広く崇敬されました。
宇佐八幡社頭
清麻呂公は身を清め心を鎮めて、神前に額ずき一心に祈りました。そこで伝えられた神託は、「道鏡を皇位に即けよ」でした。
清麻呂公の祈り
清麻呂公はなお祈りを込めて、次のごとく迫りました。「いま八幡大神の教へたまふところ、これ国家の大事なり。託宣は信じ難し。願はくは神異を示したまへ」
宇佐大神の神異
すると、身の長三丈(9m)ばかりで、色は満月の如く輝く神々しい八幡の大神が姿を表わしました。清麻呂公は仰天して、その場に伏してしまいました。そのとき、厳かに真の神託が降ろされました。
宇佐の神教(真の神託)
「わが国家は開闢より以来君臣定まれり。臣をもって君となすこと、未だこれあらざるなり。天つ日嗣は必ず皇緒を立てよ。無道の人はよろしく早く掃い除くべし」
清麻呂公の信念
宇佐八幡の真の神託は、清麻呂公の信念の表れのような気がします。また、身の危険を顧みないという覚悟が、大神に通じたと解することもできます。
帰京・神教復奏
八幡大神の神意を得た清麻呂公は、いそぎ都へ帰りました。参内した清麻呂公は、強い決意をもって神教のとおりに報告しました。群臣が見守るなか、「道鏡を掃い除くべし」と奏上したのです。朝廷を安堵が包みました。一方、道鏡は憤怒の形相で、烈火のごとく怒りました。
配流
怒った道鏡は、清麻呂公を「別部穢麻呂」と改名の上、大隈国(鹿児島県牧園町)へ流刑にしました。姉の法均(広虫姫)も還俗させられて、別部狭虫(「日本後記」-広虫売)と改名の上、備後国(広島県三原市)へ流罪となりました。
遭難
大隈国に流される途中清麻呂公は、道鏡の放った刺客に襲われました。しかし、激しい雷雨によって免れ、天皇の意を受けた勅使によって救われました。
清麻呂公を守った猪
清麻呂公は先の神教のお礼参りに、宇佐八幡に参拝しようとしました。脚が萎えて歩くことができないので、御輿に乗って豊前国宇佐郡しもと田村まで来ました。すると三百頭の猪が現われて、御輿の前後を守りながら、八幡宮まで十里の道を無事ご案内しました。参詣した日に足が立ち、歩むことができました。
狛いのししの由来
猪は清麻呂公の、守り神として崇敬されています。清麻呂公ゆかりの神社には、狛犬がわりに「狛いのしし」が安置されています。
旧拾円紙幣
旧拾円紙幣には、清麻呂公と猪が印刷されていました。
配流先の広虫姫
備後国に流された広虫姫は、貧しい暮らしをしていました。大隈国へ流された弟清麻呂公のことや、都に残してきた家族や、養育している子どもたちのことを思って、淋しい日々を過ごしていました。
子どもたちの激励
そんなある日、都から干し柿が届きました。広虫姫が育てている、子どもたちから送られたものでした。義母の身の上を心配し、激励の手紙が添えられていました。子どもたちの優しい心遣いに、人々は涙を流して感心しました。
備後国の和気神社
広虫姫の配流地(広島県三原市八幡町宮内)に、和気神社が鎮座しています。付近には、多くの史跡や伝承が遺っています。
大隈国の和気神社
清麻呂公の配流地(鹿児島県姶良郡牧園町中津川)に、和気神社が鎮座しています。ここにも多くの史跡や伝承が遺っています。
名誉回復
神護景雲4年=宝亀元年(770)8月、称徳天皇は53歳で崩御されました。そして、光仁天皇が即位されると、道鏡は下野国(栃木県)の薬師寺別当に左遷されました。一方清麻呂公と広虫姫は、流罪を解かれて都へ還りました。そして本性本位に復して、名誉は回復されました。
清麻呂公の人柄
清麻呂公は「人と為り高直にして、匪躬の節有り」(「日本後記」)、また「故郷を顧念して窮民を憐れみ、忘るることあたわず」(同)、などと史書にあるように、清廉剛直にして、誠実な人柄でした。
広虫姫の人柄
広虫姫は「人となり貞順にして、節操に欠くること無し」(「日本後記」)、「未だ嘗て法均の、他の過ちを語るを聞かず」(同)、などと史書にあるように、慈悲深く清純で心の広い人柄でした。
皇統の護持
この時代の地方豪族の子弟は、男子は舎人として、女子は采女として、朝廷に出仕するのがならわしでした。
新しい時代
桓武天皇が天応元年(781)に即位されると、それまでの仏教偏重政治を克服し、律令政治を立て直すなど、さまざまな改革を強力に推進されました。
新都造営
桓武天皇は、新時代に相応しい都造りを決意されました。人心の一新をはかる目的もありました。清麻呂公は、予定どおりに進まない長岡京の造営中止と、葛野方面(京都市)への再遷都を提言しました。清麻呂公は造営大夫として、新都造営に手腕を振るいました。
清麻呂公の活躍
天皇に信任された清麻呂公は、摂津大夫、民部大輔、中宮大夫、造営大夫、民部卿などを歴任し、職務を忠実に果たしました。
平安遷都
新しい時代の象徴として平安京は完成し、延暦13年(794)10月に遷都しました。
民生安定
清麻呂公は河内と摂津の国境に水利を通じたのをはじめ、京阪神地帯繁栄の基礎を築きました。先進技術を駆使して、数多くの治山治水事業を手掛けました。これによって民生の安定を図りました。
平安文化
「庶務に練にして、もつとも古事に明るく…」と評された清麻呂公は、学問に造詣の深い文化人でした。「和氏譜」や「民部省令」などの著作をあらわしました。
故郷への貢献
また清麻呂公は、備前美作の国造を兼ねていたので、故郷の発展につながる業績も残しています。旧和気郡を吉井川右岸と左岸に分割し、和気郡と磐梨郡とし、郡民の利便性を高めました。
子孫の活躍
清麻呂公の子どもや子孫たちは、よく彼の精神を受け継いで活躍しました。特に平安仏教の確立、大学寮の復興と私立学校「弘文院」の創立、貧民救済事業など、それぞれの立場で個性ある功績を残しました。
和気氏の医道
曾孫の和気時雨が医学博士で典薬頭になってより、代々医家として医道に貢献しました。
神護寺
清麻呂公とその子どもたちによって、平安山岳仏教の基礎は築かれました。神護寺はもと高雄山寺で和気氏の氏寺です。和気氏が支援者である、最澄や空海の活躍拠点でした。京都の高雄にあり、清麻呂公の墓所があります。
護王神社
京都御所に面して、護王神社が鎮座していますが、御祭神は清麻呂公・広虫姫などです。この外にも全国のゆかりの処に、和気神社や護王神社が祀られています。
和気氏の氏神和気神社・氏寺
和気町藤野前ヶ谷には、和気氏の氏神である和気神社が鎮座しています。外苑には日笠川が流れ、桜の名所芳嵐園があります。また藤公園やもみじ山などもあって、風光明媚な所です。郡衙の付近に、和気氏の先祖を祭神とする大内社や国造社が鎮座していたと伝わっています。近隣には、和気氏の氏寺である藤野寺もありました。
和気氏の郡衙
和気氏の先祖は、藤原県に役所を設けて土着しました。藤原県は、藤原郡、藤野郡、和気郡と変わりました。和気町藤野に、和気氏政庁跡の石碑が建っています。ここが郡衙のあった所です。
大政と周辺の地名
石碑の建っている所の地名を「大政」といいます。大政は大政所のなごりです。周辺には、古代山陽道の藤野駅屋があり、国司免、神米田、治部田、古布羅田、そして郡総社(総堂)である宗堂など、古代郡政関連の地名が多く存在します。